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君が物云わぬ誰かに刺した無熱光性の殺意憶えてる?
3ヶ月振りにHello?
ワタシは浮いたコンセンサスですか?
果てしない残虐的レントシーキングに翻弄される僕の実存は今日も今日とて無貌です。
そんな無表情決戦に打ちひしがれ疲弊してきた昨今の実情にやさぐれて来たのでここ暫く意識的に避けていた僕の内面世界と久方振りに向き合ってみようか知らんと思い至った自傷的なホラー・ショウなのです。
何故だかよくわかりませんが、僕は周囲の連中から「優しい」と揶揄される傾向にある。
優しいフリした覚えはとんと無いけれど、比較的謙虚に振舞う様に意識しているからそれを踏まえての評価かも知れないけどさ、お門違いにも程があるよなと云う溜息混じりの雑感。
まぁ自分でもそこ迄残虐性溢るる人間性を振り回す方では無いと思うけどだからと云って僕が「優しい」理由になるわけじゃないし。
言ってみれば「残虐じゃない」だけ。
だから平気で誰かに害意を向けるけれど、
ただそれを現実に投下する勇気が無いだけ。
そんな消去法から抜き出された面白味の無い出涸らしが僕という朴念仁の真実な訳で。
聖人君子みたいな積極的な優しさを周囲に振りまく健全さなんてどこにも無いのです。
仮にそう云う動的に優しい人間が居るとして、定義の上で僕を「優しい」方の人間だとすると、
どう考えても僕の「優しさ」とやらは非道く消極的なもので、とどのつまり「誰かから嫌われたくない」と云う甘ったれた感情性の上に成り立つ自己弁明染みた免罪符以外のナニモノでも無いと云う。
社会的地位やら身体的特徴で秀でた人間は例え傲慢であったとしても花に群がる蝶の様に周囲に人間が寄り集まるのならば、
僕の様なさもしい朴念仁にはその為の華を持ち得ないため、
人様から好かれ様と思ったら例え見せ掛けであったとしても「優しさ」と云う造花を掲げないと近付いてさえ貰えない。
そう云う嘘混じりの「優しさ」を評価される事によって消化不良を起こしているのだろうか僕のSystemは。
出来る事なら傲慢で居たいのに、それが叶わない抑圧された構造を「優しさ」と呼ぶのなら、
本当のやさしさとやらはどこにあるのだろう。